「無」は〈0〉「空」は〈1〉
つづき。。。
というわけで 上手く 説明出来ないで居たワケだが。。。
昨年 1年間を 庭の自然観察を 続けながらも
自然の中から 何かが 観えて来ないかを 待っていた。
そんなことから 昨年の12月頃に 一連の日記を
自分の感じた世界について 整理をする為に 書いたワケだ。
それから 年末年始に 実家に行き 近くの公園で
落葉の中に寝転んで ぼ〜っと 日なたぼっこをしていたら
突然! こんな言葉が やって来た。
「無」は〈0〉 「空」は〈1〉
これだ! と思った。
そして 更に。。。
〈1(空)〉は 変数(X)
これで かなりのことが 説明出来る と思った。
釈迦は この世は 「苦」で 満ちている と言った。
それを 「四苦八苦」 と言う。
四苦 とは 生 老 病 死
それに 愛別離苦 怨憎会苦 求不得苦 五蘊盛苦
この4つを加えて 八苦。
それと同時に 世界は 二元対立的(相対的)である。
良い悪い 好き嫌い。。。などなど 分別する。
この 分別することから 「四苦八苦」が 生まれるのだ
と 釈迦は言った。
そして この 分別を知り そこから 離れることを
「無分別智」という。
話を戻そう。。。
「無」は〈0〉 「空」は〈1〉 と言った。
これは 〈色即是空 空即是色〉なのだから
「無」は〈0〉 「有」は〈1〉 とも言えるワケだ。
まず この 0(無)と1(有)が 二元対立 である。
この2つの関係は どんなものにも 必ず ある。
好きで無い(=0) 好きである(=1) などと
当て嵌めてみると 解るだろう。
しかし 世の中は こんなに単純には 分かれない。
中間的な状態は いくらでもある。
自分(他人)の この面は好きだけど あの面は嫌い とか
適量は 薬になるが 摂り過ぎると 毒 だとか。。。
コンピュータ言語は 0と1を 組み合わせて
それを 連ねることによって 表現していく。
それに対して 人間(生物)は 0と1の 間を 移動する。
限りなく 0に近付いたり 1に近付いたり 出来る。
だから 〈1(空)〉は 変数(X) なのである。
ただし 世界は 二元対立的(相対的)なのだから
人間(生物)は 生きている限り!
〈0〉にも 〈1〉にも なることは 出来ない。
生きている限り 0と1の 間を 移動する(揺れ動く)。
それは 人間(生物)が 認識出来るもの 全てを含む。
これを 「無常」「一期一会」 と言う。
その辺りのことを 図的に 説明したのが
「ネガティブ と ポジティブ」 という 日記である。
http://diary.kaji-art.net/?day=20091224
この中で 「地」と「図」について 書いた。
この2つは どちらか 一方だけでは 存在出来ない。
そして 〈等価〉 である。
一方を〈観る〉ということは
もう一方の存在をも (少なくとも)知覚しなければ
〈観る〉ことは 出来ないのである。
一方だけを 見ようとすると その形は
消えて無くなる。
これで 「空」は 〈0〉では無く
〈1〉であり 変数(X) なのだと 言えるワケだ。
これで 一神教(原理主義)的 世界観を 越えられる。
釈迦が バラモン教を 越えたように。。。
。。。と 思ったのだが まだだった。。。(笑)
どんなに 0に 近付こうとも 1に 近付こうとも
まだ そこには 観察者としての〈私〉が 居る。
これでは 〈色即是空 空即是色〉などと 言う必要は無い。
「有」=「空」だったら こんなことを 言う必要は無いのだ。
これは 落とし穴である。
仏教も 時代を経るごとに この罠に ハマった。
そこで登場したのが 竜樹(ナーガルジュナ) である。
竜樹(ナーガルジュナ)は それを 越えた。
いや。 釈迦の教えを 復活させた と言うべきか。。。






