〈私〉とは何か?
さて 話を 進めよう。
前回 僕は 結論 と書いたワケだが
これは 僕の結論であって 皆さんには 仮説と
思ってもらって 構わないのである。
もし 疑問や 矛盾を感じたら 伝えてもらえれば
それで また 先に 進められるのだから。
前に 「観ない ということ」 という日記を書いた。
http://diary.kaji-art.net/?day=20091226
一つの リンゴを 表現するのに
絵で 描くのならば 1枚の紙で 事足りるのに
言葉(文字)で書くとなると 本一冊ほどにも
なってしまうだろう と言った。
正に 今回の 「空」についても そう思うのだ。
だとしても 図だけでは 全てを説明出来るワケでは無い。
それなりの説明が 必要になる。
それでも 哲学書に比べれば 楽なものである。(笑)
この 質量(面積/幅/長さ)の無い〈点〉を
〈私〉 として 観てみよう。
まず 〈私〉というのは どこが 出発点なのか?
生まれた時なのか? それとも 受精した時なのか?
それとも。。。?
生まれた時を 出発点と観れば その時が 「空」である
と言えるかもしれない。
いわゆる 一般的な 意識 という意味では そうである。
しかし 胎児は 胎内で 音を聴いていたりする という。
いわゆる 自覚的意識が 無いにしても 触覚というものは
少なくとも あるように思われる。
自分の 意志なのかは 判らないが 心臓も 動いている。
では 受精した 瞬間か?
受精して 細胞分裂を し始める ということは
いわゆる 自覚的意識では 無いとしても
何らかの 意識(意志)のようなものが 働いているハズだ。
ここが 〈私〉の 出発点なのだろうか?
では 精子と 卵子は どうなのだろう?
元々は 父親(私)と 母親(私)の 一部であった。
父親も 母親も それぞれ 〈私〉である。
さて? 新しい命の 〈私〉の 出発点は どこか?
ということに なってしまう。。。 切りが無い。。。
ここからも 〈私〉とは 質量(面積/幅/長さ)の無い〈点〉
ということが 読み取れないだろうか?
ということで ここに 答を求めることは 無しにして
仮に 胎児 あるいは 出生児を 出発点と してみよう。
その時点では 〈私〉は 質量(面積/幅/長さ)の無い〈点〉
である。
それ(「空」という感受性)が 時間の経過とともに
いろいろ 感じる という経験を 繰り返していく。。。
単細胞生物が 栄養となる(好む)ものを 取り入れ
要らないものや 毒となるもの(好まないもの)を
排除(排泄) 拒否を していく。
この時間の経過と 好む好まないを 白黒対比の直線と
考えてみよう。
接触して 取り入れた(好ましい)ものと
取り入れ無かったもの 排除(排泄)したもの
接触しなかった(無関心)もの などが
白と 黒に 分かれる。
この 二元対立的な 選別(分別)は
既に この 出発点の段階から 始まるのである。
そして それは 経験の記憶として 蓄積されていく。
〈私〉の周りに 〈私という鎧(世界)〉が 形成されていく。

*タンポポの 綿毛*


